通説の典拠となってきたのは、事件から実に60年以上も経過した1606年に臨済宗の僧侶・南浦文之が記した『鉄砲記』である。しかし、これは種子島側の視点から領主の功績を顕彰するために編纂された記念碑的性格が極めて強い。客観的な歴史記録というよりは、政治的な物語としての側面を色濃く孕んでいる。
最新の研究が突き止めたのは、1543年以前からすでに東シナ海沿岸地域や琉球を経由し、多様な火器が日本へ流入していた痕跡である。ポルトガル商人の単独航海による「偶然の漂着」ではなく、周到に計画された寄港ルートが存在していた可能性が高い。東南アジアから日本列島へと続く密貿易ルートの上で、種子島は突発的な遭難地点ではなく、不可避の中継基地として機能していたのだ。