では、名声を極めた喜多川歌麿とはどんな人物だったのか。歴史の記録や当時の証言を辿ると、彼は極めて自負心が強く、妥協を許さない気難し屋である一方、市井の人々に注ぐ視線はどこまでも温かかった男の姿が浮かび上がる。「女を描かせたら天下一」と自負し、他の絵師たちを見下すような傲慢さを見せることもあったが、吉原の底辺で過酷な運命を生きる遊女たちに対しても、決して侮蔑することなく一人の人間としての尊厳を持って筆を向けた。
だが、その破天荒な表現欲は、やがて強権的な江戸幕府との致命的な衝突を引き起こす。1804年(文化元年)、豊臣秀吉の栄華を描いた『太閤記』を題材にした浮世絵が、徳川幕府を暗に風刺していると見なされたのだ。歌麿は捕縛され、両手に鎖をかけられる「手鎖50日」という過酷な刑罰に処された。表現の自由を奪われ、誇りを無残に踏みにじられた精神的・肉体的打撃は計り知れない。刑期を終えた後も筆を執り続けたものの、かつての鋭敏な光彩は失われ、わずか2年後の1806年、失意のうちにこの世を去った。体制に媚びず、自らの美意識を貫き通したがゆえの悲劇的な幕切れだった。