観光資源として親しまれる現在の模擬天守の背景には、戦国乱世のクライマックスを彩った本物の「伏見城」の壮大な歴史が存在します。伏見城は一度だけ建てられた城ではなく、激動の歴史の中で三度にわたり築城と再建が繰り返された特異な城郭です。
始まりは1592年(文禄元年)、豊臣秀吉が隠居後の居館として伏見指月の地に築いた「指月伏見城」でした。当初は隠居屋敷の規模であったものの、明の使節を迎えるための本格的な城郭へと拡張されました。しかし、完成から間もない1596年(文禄5年)の「慶長伏見地震」により天守が倒壊し、壊滅的な打撃を受けます。
秀吉は即座に指月の北東に位置する強固な地盤の木幡山へと場所を移し、「木幡山伏見城」を再建しました。豪華絢爛を極めた木幡山伏見城において秀吉は最期を迎え、その遺志を継ぐ形で徳川家康が入城します。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城に石田三成ら西軍が押し寄せ、激しい攻防戦の末に落城・焼失しました(この戦いの悲劇を伝える床板が、京都の養源院や正伝寺などに「血天井」として今も残されています)。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1602年(慶長7年)に木幡山伏見城を再々建し、家康・秀忠・家光の三代にわたる征夷大将軍の将軍宣下の儀礼をこの地で執り行いました。しかし、徳川幕府の体制が盤石となった1619年(元和5年)に廃城が決定。1625年(寛永2年)までに解体作業が完了し、天守や櫓、門などの建造物は二条城や淀城、福山城など全国各地の城郭や寺院へと移築されました。
廃城後、城跡の一帯には広大な桃の木が植えられ、江戸時代には花見の名所として人々に親しまれるようになりました。この歴史的経緯から、一帯は「桃山」と呼ばれるようになり、秀吉が築いた華麗な文化を指す「安土桃山時代」という時代区分名称の語源となったのです。