柳川組の原点は、1958(昭和33)年に大阪市北区中津で結成されたごく小さなグループに遡ります。在日朝鮮人二世であった柳川次郎(本名:梁元錫)を中心に集まったのは、わずか8名の若者たちでした。地盤も資金力もない新興勢力が裏社会で生き残るための唯一の武器、それが徹底した「先制攻撃」と「退かない覚悟」でした。
その名を一躍全国に知らしめたのが、1960年に大阪ミナミを拠点としていたマンモス組織・明友会との間で勃発した明友会事件です。縄張りをめぐる些細なトラブルから始まった抗争において、千人近い規模を誇る相手に対し、柳川組は少数精鋭の切り込み隊で電撃的な襲撃を連続敢行。相手の本拠地へ白昼堂々と乗り込む苛烈なゲリラ戦術は、裏社会に凄まじい衝撃を与えました。
「殺しの軍団」という異名は、単なる残酷さからついたものではありません。組員に対して私闘や理不尽な暴力を厳しく禁じる一方、組織としての抗争が始まれば一切の妥協を許さず、目的を果たすまで攻撃を止めない冷徹な軍隊的規律が存在していました。この異常なまでの結束力と攻撃性が、当時の警察当局や他組織を震え上がらせる要因となったのです。