科学史における最大のミステリーの一つが、「コペルニクスは地動説の着想を30代前半(1510年頃の手稿『コメンタリオルス』)にはほぼ完成させていながら、なぜ70歳で亡くなる1543年まで出版を拒み続けたのか」という点です。
通説では「キリスト教会による宗教裁判や火刑を恐れていたからだ」と語られがちですが、近年の一次史料研究によって浮かび上がった実情は大きく異なります。発表が遅れた決定的な理由は、主に以下の3点に集約されます。
- 学術的な完璧主義と観測精度の限界:当時は望遠鏡が存在せず、肉眼観測に頼っていたため、地動説が正しければ観測されるはずの「年周視差(地球の公転に伴って恒星の見かけの位置がズレる現象)」を証明できなかった。
- 学界・知識人からの嘲笑への恐れ:「地球が動いているなら、なぜ真上に投げた石が元の場所に落ちてくるのか」「強烈な風で地上の建物が吹き飛ばないのはなぜか」という当時のアリストテレス物理学の常識から来る反論に対し、重力や慣性の概念がない時代に対抗するプレッシャーを抱えていた。
- 教皇庁との意外な良好関係:実際には、教皇クレメンス7世をはじめとするカトリック高官らはコペルニクスの研究に高い関心を示しており、教会側から出版を急かされていたほどだった。
躊躇を重ねるコペルニクスを動かしたのは、若きドイツ人数学者ゲオルク・ヨアヒム・レティクスの熱狂的な説得でした。レティクスの尽力によってニュルンベルクで印刷された大著『天球の回転について(De revolutionibus orbium coelestium)』の見本刷りが、脳卒中で病床にあったコペルニクスの手元に届いたのは1543年5月24日、彼が息を引き取る数時間前だったと伝えられています。