十干十二支(じっかんじゅうにし)の組み合わせによって60年に一度訪れる「丙午(ひのえうま)」。古代中国から伝来した干支の周期において、なぜ特定の年だけがこれほどまでに忌避されてきたのでしょうか。その根本的な背景には、古代の自然哲学と江戸時代の都市文化が複雑に絡み合った歴史が存在します。
中国の陰陽五行説において、「丙(ひのえ)」は「陽の火(燃え盛る火の兄)」を指し、「午(うま)」もまた「火性」であり方角では南、時刻では正午という太陽が最も極まる状態を表します。すなわち、火と火が重なり合って気が強すぎる年と解釈され、古くは「火災が多い」「天変地異が起こりやすい」といった厄災の象徴と見なされていました。
これが「この年に生まれた女性」に対する個人的な偏見へと変貌を遂げた決定打が、江戸時代前期の天和の大火(1682〜1683年)と、それにまつわる「八百屋お七」の悲劇です。恋人に会いたい一心で放火を試み、処刑された少女・お七が「承応3年(1654年)の丙午生まれであった」という俗説が、井原西鶴の『好色五人女』や歌舞伎、文楽などの大衆演芸を通じて広く人口に膾炙しました。
当時の芝居小屋や浄瑠璃によって脚色された「丙午生まれの女性は気性が激しく、夫を食い殺す(夫の命を縮める)」という根拠のないイメージは、封建的な家制度と女性蔑視が根強かった江戸後期から明治・大正期にかけて民衆の心理に深く刷り込まれていきました。