幕末期、広島藩(芸州藩)は地理的にも政治的にも極めて緊迫した立ち位置に置かれました。隣国の長州藩(周防・長門)が幕府と武力衝突を繰り返す中、広島は二度にわたる幕府の「長州征討」で幕府軍の最前線基地・本営となったためです。
長州藩と幕府の板挟みに苦しんだ広島藩でしたが、藩主・浅野長訓のもとで執政を務めた辻将曹らの先見性により、藩論は単なる佐幕から「幕長武力衝突の回避」および「平和的な大政奉還」へと大きく舵を切ります。
慶応3年(1867年)9月、広島藩は歴史的な密約を結びます。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の木戸孝允らと手を結び、武力倒幕も辞さない覚悟で結成されたのが「薩長芸三藩同盟」です。一般的には「薩長同盟」ばかりが強調されがちですが、幕末政局の最終局面において、西国大藩である芸州藩の参画は幕府に対する絶大な政治的圧力となりました。
広島藩は徳川慶喜に対して大政奉還を建白する一方、万一の武力衝突に備えて薩長とともに挙兵計画を練るなど、幕府幕引きのシナリオを水面下で主導したのです。