六文銭の旗印が歴史にその名を決定的に刻んだのは、慶長19年(1614年)から翌年にかけて行われた「大坂の陣」です。関ヶ原の戦い以降、紀州・九度山(現在の和歌山県九度山町)で約14年間にわたる過酷な配流生活を送っていた信繁は、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城へ入城しました。
大坂冬の陣において、信繁は大坂城の最弱点と目された南側に出城「真田丸(さなだまる)」を構築。寄せ手を引きつけて一網打尽にする鉄砲戦術を駆使し、前田利常や松平忠直ら数万の幕府軍を相手に大打撃を与えて撃退しました。
続く大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは、兵力で圧倒的に劣る豊臣方の敗色濃厚な状況下、信繁は配下の将兵すべてを鮮やかな朱塗りの甲冑で揃えた「赤備え」で出撃。六文銭の旗をなびかせながら徳川家康の本陣へめがけて決死の突撃を三度にわたり敢行しました。
この猛攻により家康の本陣は崩壊し、家康の馬印が倒れるという武田信玄との三方ヶ原の戦い以来の危機に陥りました。信繁の戦いぶりは、敵方であった薩摩藩主・島津忠恒によって「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由」と激賞され、死を恐れずに突き進む六文銭の武勇は後世まで語り継がれる伝説となったのです。