やなせ氏の創作活動の根底には、激動の昭和を生き抜いた波乱万丈のキャリアが存在します。旧制高知城東中学校、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)図案科を卒業後、徴兵されて中国戦線へ出征。敗戦後の極度の飢餓体験は、その後の作風と人生観を決定づける原体験となりました。
復員後は高知新聞社を経て株式会社三越の宣伝部に入社し、グラフィックデザイナーとして活躍。名高い三越の包装紙「華ひらく」(猪熊弦一郎氏デザイン)に入っているローマ字の「mitsukoshi」ロゴのレタリングは、当時宣伝部にいたやなせ氏が手がけた仕事として知られています。
退社後は舞台美術、放送作家、漫画家などマルチな才能を発揮し、1961年には作詞を手がけた童謡『手のひらを太陽に』(作曲:いずみたく)が大ヒットを記録。この名曲に添えられた『手のひらを太陽に』のイラストには、ミミズやオケラ、アメンボといった小さな生き物たちが生き生きと躍動しており、やなせ芸術の根幹をなす「すべての命への讃歌」が見事に視覚化されています。
伴侶である暢(のぶ)さんと共に苦楽を共にした軌跡は、朝ドラ『あんぱん』のモデルとして全国に感動を広げました。アンパンマンがアニメ化されて国民的社会現象となった時、やなせ氏はすでに69歳。半世紀近くの挫折と模索を乗り越えた「極めて遅咲きの天才」であった事実が、その描線に比類なき深みと説得力を与えています。