牽牛子塚古墳が白亜の八角墳に?斉明天皇の真の陵墓を追う【2026】

牽牛子塚古墳が白亜の八角墳に?斉明天皇の真の陵墓を追う【2026】

牽牛子塚古墳が白亜の八角墳に?斉明天皇の真の陵墓を追う【2026】についての真相をご紹介します。

牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓であると学界でほぼ確信された背景には、考古学史に残る大発見劇が存在します。宮内庁は現在、牽牛子塚古墳から西へ約2.5キロメートル離れた高取町車木の「車木ケンノウ古墳」を斉明天皇の陵(越智綱樫峰陵=おちのつなかしのみねのみささぎ)に治定しています。しかし、江戸時代から本居宣長ら多くの国学者が「車木ケンノウ古墳ではなく、あさがお塚(牽牛子塚)こそが真の陵ではないか」と指摘し続けていました。

決定打となったのは、2010年9月の発表でした。牽牛子塚古墳の墳丘裾からわずか南東約20メートルの地点において、一辺約10メートルの方墳である「越塚御門(こしつかごもん)古墳」が新たに発見されたのです。越塚御門古墳の石室からは、精巧に磨かれた石英閃緑岩の切石石室や漆塗木棺の破片、金銅製の金具が見つかりました。

これがなぜ決定打となったのか。『日本書紀』天智天皇6年(667年)冬10月の条には、極めて象徴的な葬送記録が残されています。

「斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)に合葬した。また大田皇女を陵の前の墓に葬った」

斉明天皇の娘である間人皇女は、孝徳天皇の皇后でした。そして大田皇女は天智天皇の娘であり、大津皇子と大伯皇女の母です。牽牛子塚古墳(=八角墳の母娘合葬墓)のすぐ目の前に、大田皇女の埋葬地と完全に符合する貴族階級の小型古墳(越塚御門古墳)が存在していたという事実は、文献史料と考古学的遺構がミリ単位の精度で合致した瞬間でした。これにより、牽牛子塚古墳が斉明天皇と間人皇女の真の眠る地であるという学説は、推測の域を出て確定的な事実として受け止められるに至ったのです。

渡辺 美咲
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渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。