天下統一直後の豊臣秀吉は、かつて敵対していた大名たちを助命するなどの寛容さを見せます。
しかし、天下統一からしばらくすると、徐々に豊臣秀吉の性格に変化が表れてきました。
独裁者的思考
豊臣秀吉は独裁者的な思考で自分の主張を貫き、国内では民衆の支配を強め、朝鮮に対して2度の戦争を起こしました。
天下をとった後の豊臣秀吉は、国内で「太閤検地」や「刀狩り」といった政策を実施しています。
太閤検地により、耕作量に応じて効率的に年貢を徴収できるようにしました。
そして、刀狩りによって農民から武器を取り上げ、農民は一揆を起こせなくなります。
これによって、豊臣秀吉は安定した年貢の確保と、農民による反乱を抑え込んだのです。
民衆を徹底的に押さえつけ逃げ場をなくすという政策は、まさに独裁者的性格が表れているといえるでしょう。
さらに、豊臣秀吉は朝鮮、明(中国)、天竺(インド)までも支配下に治めようと戦争を起こします。
豊臣秀吉が朝鮮に送った国書は、「明討伐軍の案内役を朝鮮に頼みたい。これを引き受けてくれれば、日本と朝鮮の盟約は強固なものになるでしょう。」という内容でした。
「只ただ佳名を三国(全世界)に顕さんのみ」との記述もあり、豊臣秀吉は自らの名を世界に知らしめたいと考えていたのです。
これを朝鮮に拒否されたため、豊臣秀吉は朝鮮出兵を決行します。
文禄・慶長の2回の朝鮮出兵で、日本軍はそれなりの成果をあげます。
しかし、目的であった朝鮮を経由して明に攻め込むことはできず、多くの犠牲を出しました。
豊臣秀吉の世界を支配したいという突拍子もない発想には、少々妄想めいたものを感じますね。
晩年の豊臣秀吉は、自分の立場を脅かす可能性がある民衆や他国に対して悪い妄想を膨らませてしまったのかもしれません。
天下をとる前の豊臣秀吉であれば、武力行使や強制的な手法を用いず、友好的な手段を取れたのではないかと感じました。
人を殺める
豊臣秀吉は自分の息子・豊臣秀次を、謀反の確かな証拠もないまま切腹させました。
1595年、豊臣秀次に対して突然謀反の疑いがかけられ、豊臣秀次は側近らとともに切腹します。
それでも安心できない豊臣秀吉は、豊臣秀次の妻や子供らまでも処刑しました。
これにより亡くなった人数は30人を超えますが、謀反の疑いをかけた理由は今も謎に包まれています。
天下をとる以前の豊臣秀吉ではありえない行動です。
豊臣秀吉自身の心の中では、息子が切腹すべき確固たる理由があったのでしょう。
しかし、まるで別人のような行動には驚きを隠せませんね。