宮崎駿監督が手がけた『千と千尋の神隠し』において、作中に登場する湯屋「油屋」や不思議な街並みの着想源となった実際のモデル地は、公式書籍や展覧会図録などで具体的に明かされています。監督の創作手法は特定の1箇所をそのまま模写するのではなく、幼少期の記憶や日本各地に実在する歴史的建造物の記憶をパッチワークのように再構築することに特徴があります。
スタジオジブリ公式が「大いに参考にした」と公認している主な建造物は、東京都小金井市にある江戸東京建物園です。宮崎監督はお気に入りの散策場所として同園を頻繁に訪れており、園内に移築保存されている下町の銭湯「子宝湯」の格天井や富士山のペンキ絵、文具店「武居三省堂」の壁一面に並ぶ無数の小引き出し(釜爺の仕事場の生薬棚の原型)などが、ダイレクトに作中へ反映されています。
また、湯婆婆の油屋の外観や階層構造、温泉旅館としての空気感に強い影響を与えた場所として、以下の日本国内の名湯・歴史的建築が挙げられます。
- 愛媛県・道後温泉本館:明治時代に建てられた重層的な木造建築。迷路のように入り組んだ階段や広間の意匠は、油屋の複雑怪奇なフロア構成の最大のヒントになりました。
- 群馬県・四万温泉 積善館:本館前のかかる赤い橋(慶雲橋)は、千尋が息を止めてハクと渡る油屋前の赤い橋のイメージと重なります。敷地内を通る地下通路の構造も作中のトンネルを想起させます。
- 長野県・渋温泉 金具屋:昭和初期に建てられた4階建て木造建築「斉月楼」の格式ある破風屋根や夜間のライトアップは、神々が集う油屋の絢爛豪華な夜の姿そのものです。
- 東京都・目黒雅叙園(現・ホテル雅叙園東京):油屋内部の極彩色に彩られた絢爛な宴会場や壁画、彫刻の意匠は、目黒雅叙園の「百段階段」や昭和モダンの装飾美から多大なインスピレーションを得ています。
このように、千と千尋の神隠しの舞台の根底にあるのは、日本の近代化前夜に残された湯治場文化や木造建築の重層的な美意識です。九份の炭鉱町特有の傾斜地に張り付く木造家屋や細い階段の景観が、アジア共通の雑多で猥雑なエネルギーを持っていたからこそ、多くの人々が「ここが舞台に違いない」と錯覚を起こす結果となりました。