山崎豊子が小倉への取材を開始した際、彼は決して自分を被害者や英雄として脚色することを望まなかったという。語られる言葉は常に淡々としており、むしろ自分とともに苦汁を舐め、会社を去らざるを得なかった同僚たちや、御巣鷹山で命を散らした乗客遺族への悔恨が滲んでいた。
小説が空前のベストセラーとなり、映画化されて社会現象となっても、小倉自身はどこか距離を置き続けた。晩年はアフリカの子供たちの支援活動や講演に静かに時間を捧げ、2002年に74歳でこの世を去った。「自分はただ、人間として当たり前の筋を通しただけだ」。その佇まいは、最後まで企業の社章にすがることを拒絶した男の、凛とした誇りに満ちていた。