車裂きの刑を語る上で、最も象徴的な歴史上の人物が、戦国時代の秦を強大な軍事国家へと押し上げた法家思想の政治家・商鞅(しょうおう)です。紀元前4世紀、秦の孝公に仕えた商鞅は、厳格な法治主義に基づく「変法」を断行し、貴族の特権を剥奪して農民にも軍功による身分上昇を認めました。この改革が秦の後の中国統一の礎となったことは歴史の事実です。
しかし、商鞅の厳罰主義は既得権益を奪われた王族や旧貴族層の怨嗟を買い、最大の庇護者であった孝公が没すると事態は暗転します。後を継いだ恵文王のもとで貴族たちから謀反の濡れ衣を着せられた商鞅は逃亡を余儀なくされ、最期は自らの領地で秦軍に追い詰められて迎撃の末に命を落としました。
ここでネット上の情報や大衆文化において長年信じられてきたのが、「商鞅は生きたまま四肢を車に引かれて八つ裂きにされた」という凄惨なイメージです。しかし、司馬遷が記した正史『史記』商君列伝および秦本紀を精読すると、車裂きの刑の真相は異なる姿を見せています。
『史記』には「秦の恵王、商君を車裂して以て徇(とな)へて曰く、『商鞅の若く反すること莫(な)かれ』と」と記されている一方で、軍の交戦記録には「秦、兵を発して商君を撃ち、これを黽池に殺す。秦の恵王、車裂して以て徇ふ」と明記されています。すなわち、商鞅は戦場で敗死した後に遺体を首都咸陽へと運ばれ、死後処罰として市中で車裂きにされたというのが史料に裏付けられた事実です。生きたままの執行ではなかったとしても、遺体を粉々に引き裂いて民衆に見せしめ(徇)とした事実は、彼が推進した「厳格すぎる法」が最終的に自身と敵対者の狂気として返ってきた歴史の皮肉を物語っています。