日本へ命からがら引き揚げた浩と二人の娘を、さらなる悲痛な悲劇が襲います。それが1957年12月に発生した「天城山心中事件」です。
学習院大学文学部国文学科の2年生に成長していた長女・慧生が、同級生の男子学生・大久保武道氏とともに行方不明となり、数日後に静岡県の天城山・八丁池近くの原生林で遺体となって発見されました。二人の遺体は頭部を銃で撃ち抜かれた状態で見つかり、当時のマスメディアは「愛新覚羅の皇女と平民学生の天国に結ぶ恋」「悲恋の心中」とセンセーショナルに書き立てました。
しかし、遺族や親しい関係者の証言、当時の手紙の精査によって、事件の実態は単純な合意心中とは異なる複雑な背景が浮き彫りになっています。
- 一方的な求愛と強迫観念:大久保氏からの熱烈な求愛に対し、慧生は日中関係の架け橋となる自らの出自と将来に強い責任感を抱いており、学業半ばでの結婚を固く拒んでいたこと。
- 無理心中説の根拠:発見現場の状況や慧生が直前まで友人に送っていた手紙の文面から、浩をはじめとする遺族は「心中ではなく、追いつめられた末の無理心中(他殺)」であると強く主張したこと。
- 収容所の溥傑への衝撃:当時、撫順戦犯管理所に収監されていた溥傑は、中国当局の配慮で手渡された日本の新聞報道で最愛の娘の死を知り、獄中で人目を憚らず慟哭したこと。
溥傑は獄中から浩へ送った書簡の中で、「父親らしいことを何一つしてやれぬまま先立たせてしまった」と痛恨の懺悔を綴っています。この悲劇は、単なる一学生の恋愛沙汰ではなく、国家の断絶によって父と引き離された皇族の娘が背負わされた、時代の過酷な影そのものでした。