サビの冒頭で強烈なフックとなっている「いなせだね」というフレーズは、日常会話ではあまり耳にしなくなった古風な日本語です。この言葉の持つニュアンスを正しく理解すると、楽曲の世界観がより鮮明に浮かび上がってきます。
「鯔背(いなせ)」の語源は江戸時代の若者の髪型
「いなせ」は漢字で「鯔背」と書きます。語源は江戸時代後期、日本橋魚河岸の若者たちの間で大流行した鯔背銀杏(いなせいちょう)と呼ばれる髷(まげ)の結い方に由来します。その髪型が、出世魚であるボラの幼魚「鯔(イナ)」の背中に似て平たく凛々しかったことから名付けられました。 当時の江戸町人の間では、次のような意味を持つ最高の褒め言葉として定着しました。
- 粋(いき)で勇み肌なさま
- 気風(きっぷ)がよく、さっぱりとして男気がある様子
- 野暮ったさがなく、洗練された格好良さ
本来は男性を形容する言葉を「女性」へと転用した桑田佳祐の言語センス
言語学的な観点から興味深いのは、本来「鯔背」が魚河岸の若い男衆の男気や威勢の良さを指す男性名詞的な形容詞であった点です。桑田佳祐はこれをあえて「夏を連れてきた女(ひと)」という女性の描写へとシームレスに接続させました。 単なる「可愛い」「美しい」といった既存のアイドル歌謡の形容詞を避け、海辺に颯爽と現れた自立的で小粋な女性像を「いなせだね」の一言で表現したのです。江戸の下町情緒を感じさせる伝統的な語彙を、湘南のサーフカルチャーと80年代ポップスへ大胆にミクスチャーさせた試みは、当時の音楽評論界でも極めて斬新な言語表現として高く評価されました。