分杭峠を語る上で欠かせないのが、日本最大級の断層帯である中央構造線の存在です。この地質学的境界線は、西日本の岩体を外帯と内帯に大きく二分し、分杭峠周辺でも断層活動によって直線的に浸食された深い谷や、ケルンコル(断層鞍部)、ケルンバット(断層小丘)といったダイナミックな断層地形を肉眼で確認できます。伊那市公式の地域資料でも、大地がせめぎ合う壮大な地殻変動の痕跡としてその地質的重要性が明記されています。
では、なぜこの断層鞍部が「ゼロ磁場」と呼ばれるようになったのでしょうか。発端は1995年、中国政府公認の気功師・張志祥氏が現地を訪れ、「巨大な断層の両側から異なる地殻エネルギーが押し合い、互いの力を打ち消し合って『気』が凝縮する日本最大の気場である」と提唱したことにあります。この言説がテレビ番組や雑誌などのオカルト・健康特集でセンセーショナルに取り上げられ、一過性のブームを超えて定着していきました。
しかし、地球物理学や国土地理院などの地磁気観測における科学的知見に照らし合わせると、「地殻の圧力が地磁気を完全にゼロにする」という現象は観測されていません。市販のガウスメーター(磁力計)を持ち込んで測定しても、一般的な山林と同様に微弱な自然地磁気(約30〜50マイクロテスラ程度)が検出されるのが通常です。つまり、厳密な物理学上の「磁力ゼロ空間」ではなく、「断層の歪みエネルギー」という地質学的事実と「東洋医学的な気・ヒーリング概念」が結びつけられた観光・精神文化上のメタファーとして理解するのが妥当です。