蚕を成虫にしてはいけないとされる最大の理由は、シルク(生糸)の製糸工程における構造的要請にあります。 カイコが吐き出す糸は、繭1個あたり約1,000〜1,500メートルもの長さを持つ、継ぎ目のないたった1本の連続した繊維で構成されています。この極めて細く強靭な極上の天然繊維を一本の長い糸として繰糸(そうし)することが、何千年も培われてきた製糸技術の根幹です。 ところが、繭の中でサナギから成虫(カイコガ)へ変態を遂げた個体は、外の世界へ脱出するために口からコクナーゼと呼ばれる強アルカリ性の分泌液を吐き出します。この酵素液は、繭糸同士を接着しているタンパク質「セリシン」を溶かし、頭で繊維を押し広げて穴を穿ちます。
穴の開いた繭は「出殻繭(でがらまゆ)」と呼ばれ、連続した1本の生糸を途切れなく引き出すことが完全に不可能になります。繊維がバラバラに切断されてしまうため、生糸としての品質は絶望的なまでに低下し、高級織物の原料としての価値を失い、紡績糸などのくず糸原料として買い叩かれるしかなくなります。
この品質劣化を食い止め、均質な高級絹糸を安定出荷するために行われるのが、業界で「蛹殺し(ようごろし)」、学術・産業的には「乾繭(かんけん)」と呼ばれる工程です。製糸工場や養蚕現場では、羽化する前の繭を約100〜115℃の熱風乾燥機に数時間かけたり、高熱の蒸気で蒸した後に乾燥させたりします。また、伝統的な製糸では繭を直接熱湯で煮ることでサナギの命を奪うと同時に、生糸を巻き取りやすくほぐす処理(煮繭)を施します。 「生きたまま熱湯で茹でるのか」という点について、SNS上では「人間の都合による残酷な殺戮」と感情的な反発の声が定期的に噴出します。しかし、一般社団法人大日本蚕糸会などの業界資料や歴史的記録が示す通り、この工程なくして日本の近代化を支えた養蚕・製糸産業は成立し得ませんでした。残酷という批判の裏には、人間が衣服のために命を収奪してきた近代産業の生々しい原点が横たわっています。