洛中と洛外の関係性は、時代とともにダイナミックに移り変わってきました。平安時代初期、平安京は東西約4.5km、南北約5.2kmの広大な都市でしたが、中世に入ると社会情勢の激変によって市街地が大きく縮小します。
特に応仁の乱(1467〜1477年)による被害は甚大で、かつての平安京の市街地は焼け野原となりました。その後、京都は室町幕府を中心とする北側の「上京(かみぎょう)」と、商人や職人が集まる南側の「下京(しもぎょう)」の2つの小さなまとまりに分断され、その間の畑地や周辺部は実質的な洛外状態に陥った時期もあります。
室町時代末期から安土桃山時代にかけて、この都市の活気と周辺の風情を描いた名作が『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』です。織田信長が上杉謙信に贈った狩野永徳筆の国宝をはじめ、当時の屏風には金雲の間から顔を出す洛中の町家や祇園祭の山鉾、そして洛外の清水寺や嵐山、四季折々の行楽を楽しむ人々の姿が生き生きと描かれています。都心と郊外が互いに影響し合い、ひとつの豊かな文化圏を形成していた証拠といえます。