新羅の急激な勢力拡大は、古代日本(倭国)の安全保障と国家統治のあり方にも激震を走らせました。663年、百済の復興を支援すべく中大兄皇子(後の天智天皇)が大軍を派遣した白村江の戦いにおいて、日本・百済遺民連合軍は唐・新羅連合軍の前に壊滅的な大敗を喫します。
この大敗北は、当時の日本首脳部に強烈な対外危機感を植え付けました。大宰府の水城(みずき)や瀬戸内沿岸の古代山城の築城といった防衛ラインの構築が急ピッチで進められ、律令国家体制の整備を決定的に加速させる契機となったのです。
しかし、白村江以降の新羅と日本の関係は単純な敵対関係にとどまりませんでした。唐との対立を深めた統一新羅は、背後を固めるために日本への接近を図り、日本側も新羅からの使節を盛んに迎え入れました。奈良の正倉院には、新羅から輸入された金属工芸品や絨毯(じゅうたん)、生薬などの名宝が数多く保管されており、戦火を越えた緊密な通商・文化交流の実態が今に伝えられています。