1944年秋、フィリピン・レイテ島に米軍が上陸すると、富永率いる第4航空軍は圧倒的な航空兵力を誇る米軍に対し、航空特攻作戦(陸軍特攻・万朶隊や富嶽隊など)を次々と下令しました。富永は出撃する特攻隊員に対し、軍刀を抜いて見送りながら次のような言葉を繰り返したと伝えられています。
「諸君だけを死なせはしない。最後の一機で私も必ず諸君の後を追って特攻する」
訓示で隊員の戦意を高揚させ連日のように体当たり攻撃を命じる一方、現場の航空機は激減し、整備不全の機体までもが出撃させられる事態に陥りました。富永の特攻への傾倒は苛烈を極め、海軍の神風特別攻撃隊と並び、陸軍航空隊の若者たちが次々と南溟の海へ散っていきました。
この過酷な運命は、富永自身の家庭にも容赦なく降りかかります。富永の長男である富永靖大尉(戦死後少佐)は、慶應義塾大学を卒業後に学徒出陣した優秀な飛行将校でした。富永靖は1945年5月、陸軍特攻第51振武隊長として知覧飛行場から出撃し、沖縄沖で戦死しています。司令官として数多の若者を特攻へと送り出した富永は、自らの血を分けた愛息の命さえも特攻の炎の中に投じるという、凄惨な現実を背負うことになりました。