岩谷時子のキャリアの原点は、兵庫県の宝塚歌劇団にあった。神戸女学院を卒業後、宝塚歌劇団の出版部に勤務し、機関誌『歌劇』の編集者として働いていた彼女の人生を大きく変えたのが、当時まだ若手スターとして頭角を現しつつあった越路吹雪との出会いである。
破天荒で感情豊かな越路と、几帳面で控えめな文学少女の岩谷。対照的な二人は瞬く間に意気投合した。越路が宝塚を退団して東宝へ移籍する際、岩谷もまた長年勤めた劇団を離れ、越路のパーソナルマネージャーに就任する。マネージャーとしてスケジュールを管理し、衣装の手配からメンタルケアまでを一手に引き受けながら、岩谷はペンを執り始めた。
「越路のためだけの言葉を書きたい」。その一心で生まれたのが、エディット・ピアフの名曲に日本語を乗せた「愛の讃歌」だった。ピアフの原詩が持つ生々しい悲痛さや破滅的な狂気を、岩谷は凛とした純粋な献身と崇高な愛の賛歌へと鮮やかに再構築した。この楽曲の大ヒットにより、岩谷はマネージャーでありながらトップ作詞家という、日本の音楽業界でも極めて異例の二刀流の道を歩み出すことになる。