なぜ、容疑者・梶井の放つ言葉はこれほどまでに里佳、そして読者の心を狂わせるのか。その鍵を握るのが、タイトルでもある「バター」だ。エシレバターを贅沢に使ったバター醤油ご飯、濃厚な七面鳥のロースト、滑らかなケーキ。梶井が語る食の描写は官能的ですらあり、ダイエットや世間の美意識に縛られてカロリーを恐れる現代女性たちの我慢を、根底から粉砕する力を持つ。
本作は、社会派ミステリーとしての極めて精緻な描写力を持ちながら、世間が押し付ける「痩せていてしとやかであるべき」という圧迫感に一石を投じるフェミニズム文学の傑作としても高く評価されている。自分の欲望を素直に受け入れ、他人の目を気にせずバターを口に含んだ瞬間の歓喜。梶井の異常性に惹かれながらも、里佳が直面するのは、自分自身が社会の価値観によっていかに去勢されていたかという残酷な現実であった。