国民の熱狂的な支持率(発足時70%超)を背景に誕生した細川政権でしたが、その命運はわずか263日(約8ヶ月)で幕を閉じました。小選挙区比例代表並立制を柱とする「政治改革関連法」の成立や、第二次世界大戦における日本の侵略行為に対する反省の明言など、確かな足跡を残しながらも、なぜ電撃退陣へと至ったのでしょうか。
退陣の直接の引き金となったのは、野党に転落した自民党による徹底的な追及でした。かつての佐川急便からの1億円借り入れ問題を巡り、国会審議が完全にストップ。自民党による予算案の審議拒否が続くなか、細川氏は政権維持のために泥沼の政治闘争を続けることを潔しとせず、1994年4月8日、電撃的に辞意を表明しました。
背景には、社会党から新生党までを束ねる連立政権内の路線対立(いわゆる国民福祉税構想をめぐる混乱)による心労や、権力への執着の薄さがあったとされます。その後、1998年の還暦を機に「政治の世界に未練はない」と政界を完全引退しました。
しかし、引退から16年が経過した2014年、細川氏は東京都知事選挙への出馬を突如表明し世間を驚かせました。福島第一原発事故を受けて「原発ゼロ」を掲げた細川氏の背中を押したのは、盟友関係にあった小泉純一郎元首相でした。元首相二人が街頭に並び立ち、脱原発を訴える光景は大きな話題を呼びましたが、結果は落選。この選挙戦を最後に、細川氏は再び静かな創作の日々へと戻っていきました。