公式メイキングドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた』にも収められたアフレコ当日の光景は、現在も映像業界で語り草となっています。スタジオに姿を現した森繁久彌さんは、森繁久彌 当時の年齢にして83歳。歩行には介助を要する状態でありながら、放つオーラはスタジオ内の空気を完全に支配していました。
普段は現場の絶対君主としてスタッフに厳しく対峙する宮崎駿監督が、直立不動で深々と頭を下げ、冷や汗を拭いながら演技指導の言葉を探す姿は、周囲のスタッフを驚嘆させました。その緊張感を和ませたのは、森繁さん持ち前の色気と茶目っ気でした。スタジオに入るや否や、女性スタッフの手を握りながら「お嬢さん、私と一緒に心中してくれないかね」と冗談を飛ばし、張り詰めていた現場の空気を一瞬で緩めてみせたのです。
しかし、マイクの前に立った瞬間に事態は一変します。これこそが伝説の森繁久彌 アフレコ秘話です。宮崎監督が恐縮しながらキャラクターの細かな心理描写を説明しようとすると、森繁さんは台本を手にしながら「あんた、ずいぶん難しそうな顔をして作ってるね。要するに、この爺さん(乙事主)は、一族のために命を捨てにきたんだろう」と、作品の本質をたった一言で射抜いてみせました。
テスト収録のブザーが鳴り、スピーカーから放たれた第一声は、83歳の肉体から発せられたとは信じがたい、地底から響き渡るような轟音でした。技術的な声優の枠組みを遥かに超越した「生命の咆哮」を前に、調整室にいた宮崎監督は言葉を失い、ただただ「素晴らしい……鳥肌が立ちました」と呟くほかありませんでした。これぞ日本映画黄金期を牽引した名優の底力であり、現場の誰もが本物の神の降臨を目の当たりにした瞬間でした。