共同運輸会社との死闘が泥沼化し、勝敗の行方が見えぬ最中、弥太郎の肉体は密かに病に蝕まれていました。明治18年(1885年)2月7日、岩崎弥太郎は東京・無縁坂の本邸において、満50歳の若さでこの世を去ります。
公式記録における死因は進行性の「胃がん」でした。激務による過労、極度のストレス、そして大の酒豪であった生活習慣が病状を悪化させたと見られています。亡くなる直前、激痛に苦しみながらも弥太郎は事業の行く末を案じ続け、後継者たちに対して弱音を一切吐かなかったと伝えられています。
死の床において弥太郎が遺した数々の言葉には、彼の苛烈な人生観とリアリズムが凝縮されています。
「事業を営むには、まず人に頼るな。自らの力で立つべし。天下の事業は、一人の断固たる意志によってのみ成し遂げられる」
「小事に拘泥して大事を誤るな。機会が訪れたならば、躊躇せず全軍を投じてこれを掴み取れ」
これらの岩崎弥太郎の名言は、民主的な合議制を重んじる渋沢流の経営論とは対極をなす、「オーナーシップの極致」を示しています。弥太郎の死後、泥沼の消耗戦に終止符を打つべく、三菱商会の海運部門と共同運輸会社は対等合併し、現在の日本郵船(NYK)が誕生しました。弥太郎の遺志は、競争の果てに日本最大の近代海運会社を生み出すという劇的な形で結実したのです。