長年、中島敦を苦しめ続けたのが重度の慢性気管支喘息でした。発作が起きれば呼吸すらままならず、死の恐怖と隣り合わせの生活を強いられます。1941年、彼は教職を辞し、南洋庁の国語教科書編纂書記として委任統治領だったパラオ諸島(コロール島)へと渡りました。
なぜ遠く離れた南洋の地を選んだのか。その理由は、温暖な気候による「喘息の転地療養」と、安定した収入を得て家族を養うためでした。しかし皮肉にも、現地の過酷な湿気や巡回業務の激務は彼の身体を激しく蝕み、持病はさらに悪化してしまいます。失意の中で翌1942年に帰国した敦は、作家専業の道を覚悟します。
帰国直後、パラオでの見聞やスティーヴンソンの晩年を描いた『光と風と夢』が第15回芥川賞候補となり、文壇から一躍脚光を浴びました。しかし栄光の時間はあまりにも短すぎました。1942年11月、喘息の大発作を起こして世田谷の岡田病院に入院。心臓衰弱を併発し、1942年12月4日、33歳という若さで逝去しました。死の直前まで「書きたい、書きたい」と創作への執念を口にし続けたと伝えられています。