彼の作品を巡っては、正規の美術教育を受けていない者が内発的な衝動から生み出すアウトサイダー・アートの文脈で語ろうとする動きも一時的に存在した。しかし、そこには決定的な決定打が欠けている。彼の「表現」には、常に被害者や遺族の存在を忘却した過度な自己陶酔がまとわりついているからだ。
事件を追うノンフィクションの書き手やジャーナリストたちも、この異様な表現物をどう評価すべきか葛藤を余儀なくされた。単なる凶悪犯の狂気として切り捨てるのか、それとも現代社会が生み出した病理の産物として記録に残すべきなのか。その境界線は今もなお曖昧なままである。