物語全編を貫く最大のサスペンスは、松たか子演じるカルテット・ドーナツホールの第1ヴァイオリン奏者・巻真紀(まき まき)の正体と、彼女がついた嘘の動機です。警察の捜査線上に浮上し、第9話で明かされた真実は、彼女が「早乙女真紀」という他人の戸籍を300万円で購入して生きていた「山本彰子(やまもと あきこ)」という別人であったという衝撃の事実でした。
彼女が名前を捨てなければならなかった背景には、義理の父親から長年にわたって受けていた壮絶なドメスティック・バイオレンスが存在します。母が再婚した義父から虐待を受け、母が事故死した後に受け取った保険金を奪われそうになった彰子は、自らの人生と身の安全を守るために「自分の過去を消し去る」という極限の逃亡劇を選ばざるを得ませんでした。義父を心不全で亡くした際も、警察から疑われることを恐れて姿を消した彼女の嘘は、誰かを騙して利を貪るための悪意ではなく、過酷な現実から尊厳を守り抜くための生存戦略としての嘘だったのです。
そしてもうひとつの謎である、宮藤官九郎演じる夫・巻幹生の失踪の真相もまた、日常の些細なすれ違いが招いた悲劇でした。幹生は「恋人同士のようなロマンチックな関係」を望んでいたのに対し、真紀は「家族として心休まる平穏な日常」を求めていました。有名な「唐揚げに勝手にレモンをかけるかどうか」という問題に象徴されるように、夫は妻への違和感を口に出せず、小さな我慢を積み重ねた結果、「愛しているけれど、好きじゃない」という決定的な精神の乖離を抱えてベランダから失踪してしまったのです。
多くの視聴者が息を呑んだカルテットの最終回ネタバレとして特筆すべきは、世間から「疑惑の女」としてバッシングを受け、一度は解散の危機に瀕した4人が、最終的に大ホールでのコンサートを開催する結末です。好奇の目に晒されるスキャンダルを逆手に取り、満員の観客の前で演奏を披露したカルテット・ドーナツホール。しかし、演奏後に大喝采を浴びてスターダムにのし上がるような安易な成功劇は描かれません。彼らは再び軽井沢の古い別荘へと戻り、誰にも届かないかもしれない演奏を、それでも自分たちのために鳴らし続けます。夢が叶わなくても、世間に認められなくても、日々の営みと音楽は続いていく――このラストシーンこそ、坂元裕二脚本が到達した至高のリアリズムです。