シベリアに展開した日本軍は、想定外の過酷な現実に直面しました。マイナス40度にも達する極寒の気候、広大すぎる戦線、そして何よりも正規軍が存在しないパルチザン(共産ゲリラ)との非正規戦です。兵士たちは「なぜ自分たちがロシア奥地で戦っているのか」という大義名分を見失い、士気は著しく低下しました。
さらに1920年(大正9年)初頭には、出兵の名目だったチェコ軍のウラジオストク撤退が完了します。これを受けてアメリカ、イギリス、フランスは速やかにシベリアから軍を引き揚げました。しかし、日本軍だけは「居留民の保護」や「赤化防止」を理由に現地に残留し続け、国際的な孤立と現地住民の反日感情を決定的に深めてしまいます。
その結果起きた最悪の惨劇が、1920年の尼港事件(ニコラエフスク事件)です。アムール川河口のアムールスキー・ニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザン部隊により守備隊と民間人居留民を含む日本人700名以上(全人口のほぼ全員)が虐殺されました。この悲劇により日本国内の世論は激昂し、日本軍は報復と治安維持を名目に北樺太を占領。出兵の泥沼化はさらに加速していきました。