旅館西郊の成り立ちを紐解くには、昭和初期の荻窪という土地が帯びていた独特の空気感を理解する必要があります。関東大震災(1923年)以降、東京の中心部から西部の武蔵野台地へ向けて大規模な人口移動が起きました。荻窪周辺は空気が清澄で緑豊かな郊外住宅地として脚光を浴び、近衛文麿の私邸「荻外荘」をはじめ、井伏鱒二、太宰治、与謝野晶子といった当代一流の文化人が集い、サロン文化が花開いていました。
こうした気風の中、創業者である峰岸甚造氏によって昭和6年(1931年)に建てられたのが高級下宿「西郊ロッヂング」です。当時としては最先端の洋風生活様式を取り入れ、東京帝国大学の学生や若き官僚、文化人たちが起居しました。外観には当時流行したスクラッチタイルが丁寧に貼られ、中央の中庭を囲むコの字型の配棟、屋根に配された緑青色のドームなど、昭和モダンを象徴する意匠が散りばめられています。
さらに需要が高まった昭和13年(1938年)、隣接地に増築されたのが現在の「本館」です。こちらは一転して、腕利きの宮大工や職人が手掛けた本格的な数寄屋風造り。木肌の美しい銘木を惜しみなく配した床の間、格天井、精緻な組子細工の欄間、そして昭和初期特有のわずかに歪みのある手吹き波打ちガラス。洋のモダニズムと和の伝統美が隣り合わせで調和する空間設計は、昭和初期の建築技術と美意識の極致を示しています。
戦後の昭和23年(1948年)、時代の移り変わりに合わせて新館は「旅館西郊」として看板を掲げ、修学旅行生から文豪ファン、静寂を求める長期滞在客までを包み込む名宿として半世紀以上愛され続けることになりました。