「目立っている下の前歯のがたつきさえ平らに整えば満足なのに、なぜ上の歯まで動かさなければならないのか」――これは矯正相談において最も頻出する疑問の一つです。しかし、日本矯正歯科学会の専門医や臨床現場のドクターが口を揃えて警鐘を鳴らす理由は、歯並びの美しさと咀嚼機能(噛み合わせ)が密接不可分だからに他なりません。
歯は、上下一対のギア(歯車)のように精密に噛み合っています。正常な歯列では、上の前歯が下の前歯を2〜3ミリほど外側から覆う「オーバージェット(前後関係)」と「オーバーバイト(垂直関係)」が保たれています。もし、下の歯のがたつきを解消するために下の歯列だけを強引に並べ直すと、重なり合っていた歯が外側へ押し出され、歯列の横幅や前後径が広がります。その結果、上の歯の内側と下の歯の外側が強く衝突する「早期接触」が生じたり、逆に前歯が噛み合わずに隙間が生じる「開咬(かいこう)」を引き起こしたりするのです。
都内の矯正歯科クリニックに勤務する歯科医師は、現場の実情を次のように明かします。
「『下の歯だけなら安く早く終わる』と信じて来院される患者様の約8割は、下の歯だけを動かすと上下の噛み合わせが成立しなくなる骨格・歯列の持ち主です。上下のバランスを無視して下のアーチだけを変更すると、前歯で食べ物が噛み切れなくなるだけでなく、奥歯に異常な負荷が集中し、数年後に奥歯が破折したり顎関節症を発症したりする危険性があります」
大人の歯科矯正において、単に歯を一列に並べるだけの「見た目の修復」と、生涯にわたって食事を美味しく楽しむための「機能の再建」は全く別物です。下の歯の歯列不整を根本から解決するには、上の歯列との位置関係をミリ単位で計算し尽くした治療計画が不可欠となります。