二・二六事件に先立つ昭和7(1932)年にも、海軍青年将校らによる「五・一五事件」が発生しています。同じ軍部による要人暗殺事件でありながら、歴史的性質は大きく異なっていました。
五・一五事件は、海軍の青年将校や民間右翼ら十数名による「個人テロリズム」の枠を出ないものでした。首相の犬養毅が射殺されたものの、大規模な部隊出動はなく、軍の指揮系統が丸ごと奪取されたわけではありませんでした。さらに、事件後の裁判は公開され、社会の同情を集めた結果、犯人たちには極めて寛大な刑罰(禁錮刑など)が下されました。この甘い処分が、「国を憂いての行動なら武力行使も許される」という危険な風潮を軍内に蔓延させる土壌を作ってしまったのです。
これに対し、二・二六事件は正規の陸軍連隊から約1,500名もの正規軍兵力を動員した本格的な軍事クーデターでした。首都中枢の機能を完全に麻痺させ、国家転覆寸前まで至った規模の大きさは五・一五事件の比ではありませんでした。
そのため、事件後の軍法会議は一審制・非公開・弁護人なしという極めて異例の「暗黒裁判」として行われました。反乱を主導した青年将校ら17名に加え、精神的指導者とみなされた北一輝や西田税ら民間人にも死刑判決が下され、速やかに銃殺刑が執行されたのです。