ブラジル代表を取り巻く葛藤をスポーツ社会学の視点から分析すると、根底にあるのは「文化的アイデンティティ(ジンガやストリートサッカーの美学)」と「現代欧州フットボールの機能主義」の深刻な摩擦です。かつてのブラジルは、他国が追随できない個人の圧倒的ひらめきによって勝利を独占してきました。しかし、プレッシング理論とポジショナルプレーが世界標準となった現在、組織的な裏付けのない個人技はメガクラブの守備網に容易に封殺されてしまいます。
心理学的な側面からも、近年のセレソンは「ネイマールという偉大な父」に対する共依存関係に陥っていました。「苦しい時は彼が何とかしてくれる」という無意識の甘えが、チーム全体の自律的な問題解決能力を奪っていたのです。現在のドリヴァル監督が進める改革は、この共依存を解体し、選手一人ひとりが戦術的責任を背負う「心理的バウンダリー(境界線)」を再構築する作業に他なりません。
現代のブラジル代表を正しく評価し、そのフットボールを楽しむためには、観戦者側にも明確な視点の切り替えが求められます。
【セレソンの現在地を評価する判断基準】
・楽しむのに向いている視点:欧州最高峰の戦術規律の中で、ヴィニシウスやエンドリッキが放つ一瞬の閃きがどのように組織をレバレッジ(増幅)させるかを見守る姿勢。
・おすすめできない(失望しやすい)視点:1970年や2002年のような「ピッチ上の全員が楽しげにサンバを踊るように相手を蹂躙するファンタジー」をそのまま求める姿勢。
痛みを伴う組織改革を受け入れ、機能美の中に宿る新たなブラジリズムを肯定できた時、新生セレソンの真の恐ろしさが見えてきます。