推古天皇と聖徳太子が推進した政治改革の根底には、飛鳥時代における冠位制度の歴史的背景として、抜き差しならない内外の危機感がありました。6世紀末から7世紀初頭にかけて、中国大陸では約300年におよぶ南北朝の動乱を終結させ、強大な統一帝国である「隋」が誕生しました。この地殻変動は朝鮮半島の高句麗・百済・新羅を緊張させ、ヤマト政権に対しても従来の緩やかな部族連合体のままでは対等な外交を結べないという強烈なプレッシャーを与えたのです。
当時の日本国内を支配していたのは、特定の豪族が代々特定の役職と身分を独占する「氏姓(しせい)制度」でした。蘇我氏や物部氏といった大豪族が血縁関係を武器に朝廷を動かし、個人の能力とは無関係に権力が世襲される構造は、激変する国際情勢に対応できる専門官僚の育成を阻む最大の障壁となっていたのです。
こうした構造疲弊を打開すべく打ち出された冠位十二階の聖徳太子の目的は、対外的には隋と対等に渡り合える整然とした官僚機構を誇示すること、対内としては大王(天皇)を中心とする中央集権的な統治機構を確立することにありました。能力と忠誠心に応じた昇進システムを設計することで、旧弊な豪族勢力を王権に直属する「官人」へと再編する壮大な国家統制の第一歩だったといえます。