建白書が提出された直接の引き金は、提出のわずか3カ月前に起きた「明治六年政変(1873年)」にあります。朝鮮への使節派遣をめぐる征韓論争において、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らの参議が、岩倉具視や大久保利通らと激しく対立しました。結果として岩倉・大久保らの内治優先派が主導権を握り、敗れた板垣らは一斉に下野(政府の役職を辞任)することとなったのです。
下野した板垣らは、ただ郷里に引き籠もるつもりはありませんでした。1874年1月12日、彼らは東京・銀座で日本最初の政治結社とされる「愛国公党」を結成します。イギリス留学から帰国したばかりの古沢滋や小室信夫が持ち帰った西欧の天賦人権論や立憲君主制思想を吸収し、武力ではなく「言論の力」で政権に対抗する枠組みを構築しました。
そして結成からわずか5日後の1874年1月17日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎、古沢滋、小室信夫の8名が連名で、政府の立法諮問機関であった「左院」へ提出した文書こそが、民撰議院設立建白書でした。下野した実力者たちが、薩長藩閥による独裁体制を解体し、自らの発言力を合法的に取り戻すための宣戦布告だったのです。