太皷谷稲成神社を訪れた人がまず抱く疑問が、「なぜ一般的な『稲荷』ではなく『稲成』の文字を使うのか」という点です。この表記の違いには、創建の歴史と深い祈願の意図が込められています。
神社の創建は江戸時代中期の安永2年(1773年)に遡ります。津和野藩7代藩主である亀井矩貞(かめいのりさだ)公が、津和野城(三本松城)の鬼門にあたる太皷谷の峰に、藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から神霊を勧請(かんじょう)して斎き祀ったのが始まりです。
その際、亀井矩貞公は単なる五穀豊穣の祈願にとどまらず、神への祈りが「成就する」「物が成る」という強い願いを込め、あえて「成」の字をあてて稲成神社と名付けました。全国数万の稲荷神社の中でも「稲成」と記す神社は極めて珍しく、古くから「諸願成就・願望成就の神様」として篤く崇敬されてきた決定的な理由がここにあります。
創建当初は藩の城内鎮守として歴代藩主のみが参拝を許される神聖な場所であり、一般庶民の参拝は固く禁じられていました。明治維新後の版籍奉還を経て広く一般に開放されると、藩主の祈りを引き継いだ強力なパワースポットとして、瞬く間に山陰・山陽をはじめ全国へとその信仰が広がっていきました。