1944年秋、フィリピン・マバラカット飛行場で大西が神風特別攻撃隊の編成を決断した背景には、日本の制空権喪失と圧倒的な戦力差がありました。連合艦隊の主力が突入するレイテ湾海戦を成功させるためには、敵空母の飛行甲板を一時的にでも使用不能にする必要がありましたが、通常攻撃を行えるだけの熟練パイロットも機体も残されていませんでした。
大西は着任直後、第201海軍航空隊の幹部たちを前にこう語ったと伝えられています。
「体当たり攻撃以外に、もはや戦局を打開する術はない。これは統率の外道である。しかし、国を救うためにはこの外道を行わねばならぬ」
関行男大尉率いる敷島隊をはじめとする若者たちが次々と飛び立つ中、大西は「特攻作戦を命じた自分は、絶対に畳の上では死なない」と周囲に漏らしていました。特攻を軍事作戦として恒常化させた責任の一方で、彼自身がその罪の重さに最初から押し潰されていたことは、多くの関係者の回想録に記されています。