中日ドラゴンズファンにとって、2001年オフの出来事は今なお忘れられないドラマとして語り継がれています。この年のシーズン最終盤、星野監督は成績不振の責任を取る形で突如として辞任を発表しました。しかし、最大の激震はその直後に訪れます。中日球団のフロント入りが既定路線と見られていた星野氏が、あろうことか長年のライバルである阪神タイガースの次期監督に就任したのです。
この電撃移籍の裏には、複数の決定的な要因が絡み合っていました。第一に、中日球団フロント・親会社トップとの摩擦と長期政権による限界です。星野氏は情熱的な現場主義者であり、チーム強化のための大型補強や環境改善を妥協なく球団に要求し続けました。しかし、第2期政権が6年目を迎える中で、球団経営陣との間にチーム運営方針をめぐる見解の相違やすれ違いが生じ始めていたとされています。また、星野氏自身も同じ指導陣・同じ環境で戦い続けることによるチームのマンネリ化を誰よりも敏感に察知していました。
第二の要因は、盟友・田淵幸一氏との絆と、ゼロから挑む勝負師の本能でした。当時、野村克也監督が突如辞任し、暗黒期に喘いでいた阪神タイガース球団上層部は、チーム再建の唯一の切り札として星野氏に白羽の矢を立て、熱烈なラブコールを送り続けました。当初は中日への愛着から固辞していた星野氏でしたが、大学時代からの無二の親友である田淵幸一氏を打撃コーチとして入閣させる体制が整ったこと、そして「低迷する名門を自分の手で甦らせてみたい」という指導者としての熱い血が騒いだことで、最終的に移籍を決断したのです。
名古屋のファンからは当時、裏切りとも取れる批判の声が一部で上がったのも事実です。しかし星野氏は後年、「中日への愛情があったからこそ、中途半端な形でチームに残るわけにはいかなかった」と述懐しています。古巣への敬意と指導者としての野心が交錯した末の、苦渋にして壮絶な決断でした。