ここで多くの人が驚く決定的な事実がある。入江茂忠が完成させた「元祖スパゲッティ ナポリタン」には、ケチャップが一滴も使われていなかったのだ。
生のトマトから丁寧に仕込んだ自家製トマトソースに、マッシュルームとハム、そしてオリーブオイルで炒めた麺を絡める。仕上げにパルミジャーノ・チーズとパセリを散らす。それは極めて上品で、酸味の角が取れたまろやかな味わいだった。中世イタリアのナポリで屋台パスタにトマトソースが使われていた史実に敬意を払い、フランス料理の流儀に則って「スパゲッティ・ナポリタン」と命名されたのである。
では、なぜ私たちが知る「ケチャップ炒め」のスタイルが全国に定着したのか。その鍵を握るのが、昭和30年代に台頭した街の喫茶店や洋食店だ。高級な生トマトや手の込んだソース作りはコストがかかる。そこで安価で日持ちのする国産トマトケチャップが代用され、フライパンで香ばしく炒める調理法が編み出された。茹で置きした極太のソフト麺を使い、焦がしケチャップの風味をまとわせる──この大胆なアレンジによって、庶民の胃袋を掴む国民食への階段を一気に駆け上がったのである。