和歌山毒物カレー事件の構図を俯瞰したとき、浮かび上がるのは過熱報道による「確証バイアス」と、刑事司法の根幹である「疑わしきは被告人の利益に」という大原則の衝突です。
林眞須美死刑囚が夫の林健治氏らとともに巨額の保険金詐欺を長年働いていたことは疑いようのない事実であり、その反社会的な行動が当時の警察・マスコミ・世論に「この冷酷な人物ならやりかねない」という強烈な先入観を植え付けました。しかし、「保険金詐欺の犯人であること」と「祭りのカレーに無差別に毒物を混入したこと」の間には、論理的な飛躍があります。カレー事件では一切の金銭的利益が発生しておらず、動機の解明もなされていません。
感情論で「凶悪犯を即刻執行せよ」と叫ぶことは容易です。しかし、客観的証拠に重大な疑義が生じている以上、手続きの正当性を無視して刑を執行すれば、取り返しのつかない司法殺人を犯す危険性を孕みます。被害者遺族の救済と苦しみへの配慮を怠ってはならないのと同時に、科学的真実に基づかない刑の執行は断じて許されないという近代法の冷徹な教訓がここにあります。