平安時代中期、貴族の初等教育用教科書として編纂された『口遊(くちずさみ)』(970年成立・源為憲著)には、当時の巨大建造物を数え歌にした有名な言葉が残されています。
「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」
これは、当時の日本における大型建築物の高さを序列化したものであり、その内訳は以下の通りです。
- 雲太(出雲太郎):出雲大社本殿(約48m)
- 和二(大和次郎):奈良・東大寺大仏殿(約45m)
- 京三(京三郎):平安京・太極殿(約30m)
日本の政治の中心であった平安京の大極殿や、国家仏教の総本山である東大寺の大仏殿を抑え、辺境とも言える出雲の神殿が堂々の1位として謳われていました。この口承は単なる誇張ではなく、平安貴族たちにとって揺るぎない常識として認識されていたことを示しています。
では、この超高層神殿は「いつまで」存在していたのでしょうか。古文書の記録を辿ると、平安時代から鎌倉時代にかけて、出雲大社本殿は風雪や地震によって少なくとも7回以上の倒壊・再建を繰り返したことが記録されています。
高さ48mの超高層木造建築を維持することは、当時の技術と森林資源の観点から極めて過酷な負担でした。1248年の造営本殿を最後に、次第に現実的な構造へと縮小が図られ、室町時代から江戸時代の1744年(延享元年)の造営を経て、現在の「高さ約24m」の安定した社殿様式へと定着していきました。