田中氏の代名詞とも言えるエピソードが、1985年に起きた「グリセリンの誤混入」です。この発見は、科学史における劇的なセレンディピティ(偶然の幸運)として語り継がれています。
当時、レーザーのエネルギーを吸収させてタンパク質を保護するマトリックス(緩衝剤)を探していた田中氏は、金属の微粉末であるコバルト粉末を使用する実験を行っていました。本来であれば揮発性の高いアセトンに溶かすはずが、誤って粘性の高いグリセリンを混入させてしまうという単純な実験ミスを犯します。
普通の研究者であれば廃棄してやり直す場面でしたが、田中氏は「高価なコバルト粉末を捨てるのはもったいない」と考え、そのままレーザーを照射しました。すると、予想に反してグリセリンが急激な加熱を防ぐクッション材として機能し、タンパク質が無傷のまま気化してイオン化するという奇跡的なデータが得られたのです。
単なる失敗で終わらせず、生じた現象の特異性を見逃さずに丹念にデータを検証した田中氏の洞察力こそが、「世紀の失敗」を人類史に残る大発見へと昇華させた決定打でした。