国家の破滅的な人口政策と極度の経済破綻は、独裁政権の命取りとなりました。1980年代後半、対外債務返済を優先するあまり国民に極度の飢餓と耐乏生活を強いたチャウシェスク政権に対し、民衆の怒りは限界に達していました。
1989年12月、西部ティミショアラで始まった反体制デモは瞬く間に全国へ波及。治安部隊による発砲で多数の犠牲者が出たことで、国民の怒りは爆発しました。ブカレストの大規模集会で演説を遮られたチャウシェスクはヘリコプターで逃亡を試みるも、軍部が民衆側に寝返ったことで拘束されました。
1989年12月25日、特別軍事法廷が開かれ、大量虐殺(ティミショアラでの弾圧を含む数万人規模の国民殺害関与)や国家経済の破壊、不正蓄財の罪で、チャウシェスクとその妻エレナに対して即座に死刑判決が下されました。判決直後に銃殺刑が執行され、24年間に及ぶ独裁政治は血塗られた結末を迎えました。独裁者の死によって初めて、隠蔽されてきた孤児院の実態が白日の下に晒されることになったのです。