1878年5月14日午前8時頃、東京・麹町区清水谷。緑が生い茂る雨上がりの朝、明治政府の実質的最高指導者であった内務卿・大久保利通の乗った二頭立ての馬車が皇居へ向かって進んでいました。その静寂を破り、突如として路上に飛び出した6名の刺客が大久保を急襲します。これが世に言う「紀尾井坂の変」です。
主犯格は石川県の士族・島田一郎ら。彼らは短刀や長刀を手に馬の脚を薙ぎ払い、御者を倒すと、馬車から降りた大久保に刃を向けました。大久保は「無礼者!」と一喝したと伝えられますが、全身に無数の傷を負い、47歳の若さで命を落としました。
なぜ大久保利通は狙われなければならなかったのか。当時の捜査記録や彼らが所持していた「斬奸状(ざんかんじょう)」を紐解くと、単なる逆恨みではない、急激な近代化が招いた深刻な社会の亀裂が浮かび上がります。
刺客たちが掲げた主な理由は以下の通りです。
- 有司専制(官僚独裁)への激しい反発:国会(議会)を開かず、一部の薩長藩閥官僚だけで国家の重要方針を専断していることへの憤り。
- 旧士族の特権剥奪と困窮:廃刀令や秩禄処分によって身分と生活基盤を奪われ、没落していった武士層の絶望。
- 西南戦争による西郷隆盛の死:前年(1877年)に自刃した西郷を支持する人々にとって、大久保は「かつての盟友を見捨てて追い詰めた非情な冷血漢」と映っていたこと。
大久保は西郷のような情に訴えかけるカリスマではなく、冷徹なまでのリアリストとして富国強兵と殖産興業を推し進めました。道路を整備し、工場を建設し、電信や鉄道網を広げるという国家の大改造を猛烈なスピードで強行したため、取り残された旧士族層からの怨嗟の的となっていたのです。
しかし、この暗殺事件の現場から回収された遺品を調べた検視官や関係者は、息を呑むことになります。大久保の懐中からは、暗殺直前まで熱心に目を通していた福島県令・山口通毅からの開発計画に関する書簡とともに、かつて袂を分かった西郷隆盛から送られた古い手紙が大切に携えられていました。冷徹な官僚機構のトップでありながら、その内面には維新を共に駆け抜けた同志への深い悔恨と愛情が最後まで燻り続けていた事実を物語っています。