会社側が取った手段は冷酷極まりないものだった。小倉に命じられたのは、パキスタンのカラチ、イランのテヘラン、そしてケニアのナイロビといった、当時のインフラも整っていない海外僻地への転勤である。しかも、通常2年程度で交代するはずの駐在が、彼に限っては次の地へ、またその次の地へと引き延ばされた。通算で10年を超える事実上の島流しである。
家族と離れ、過酷な環境で孤独に耐え続ける日々。会社側の狙いは、彼の精神を叩き折り、組合活動の象徴としての影響力を削ぐことにあった。しかし、小倉は腐らなかった。ナイロビの地でカメラを手に取り、アフリカの大自然や動物たちを撮影し続けた。彼の撮影した写真はのちに高く評価されるが、それは絶望の淵で見出した、彼なりの「人間性の証明」だったのだ。