嘉子が法学の道へと踏み出した昭和5年(1930年)、明治大学に「女子部」が設立された。それまで女性に対して法学部を閉ざしていた日本の最高学府において、女性への法学教育のパイオニアとなった場所である。男子学生からの冷たい視線や「女性に法律など理解できるはずがない」という世間の差別に晒されながらも、彼女らは必死に判例を読み込み、議論を戦わせた。
1938年(昭和13年)、高等試験司法科に合格。中田正子、久米愛とともに、日本初の女性弁護士が誕生した瞬間だった。当時の時事新聞やラジオは彼女たちを「巾着切りの味方か」「女だてらに法廷に立つ」と揶揄気味に報じたが、司法・法曹界の保守的な壁に風穴を開けた衝撃はあまりに大きかった。
弁護士として活動を開始した矢先、日本は太平洋戦争の渦中へと飲み込まれていく。男たちが次々と戦場へと駆り出される中、彼女は法の灯火を絶やさないため、法廷に立ち続けた。資格を得ること以上に、それを維持し、実践し続けることの厳しさを、彼女は誰よりも知っていた。