フッ化水素酸が持つ最大の脅威は、皮膚表面にとどまらず組織の深部へ容易に侵入する分子構造にある。塩酸や硫酸といった一般的な強酸は、皮膚表面の蛋白質を即座に凝固させて熱傷の激痛を生じさせ、自制的な防御行動を促す。しかし、低濃度のフッ化水素酸は皮膚バリアをほとんど刺激せずに通過し、解離したフッ化物イオンが皮下組織や骨にまで到達する。
体内に入り込んだフッ化物イオンは、血液中のカルシウムやマグネシウムと強力に結合し、不溶性のフッ化カルシウムを形成する。この過程で血中カルシウム濃度が急激に低下する「低カルシウム血症」を発症。細胞膜の電位バランスが崩れ、激しい心室細動や不整脈が突如として発生する。付着面積が体表面積のわずか1%程度であっても、全身性の代謝異常から死に至る毒性メカニズムが存在する。
濃度の違いによる症状のタイムラグも罠となる。濃度の高い溶液であれば直ちに強い痛みが生じるが、濃度20%以下の溶液に触れた場合、数時間から最長24時間近く無症状のまま経過することがある。組織破壊が静かに内部を進み、痛みが現れた時にはすでに深部組織や骨の壊死、そして致死的な電解質異常が手遅れなレベルまで進行しているケースが極めて多い。