昭和のアウトロー史において最も凄惨を極め、社会全体を震撼させたのが、1984年(昭和59年)から1989年(平成元年)にかけて勃発した山一抗争の真相です。
絶対的指導者であった三代目組長・田岡一雄が1981年に病死し、さらに後継本命と目されていた若頭・山本健一も急逝したことで、山口組内部に深刻な後継者争いが生じました。1984年、四代目組長に武闘派の竹中正久が就任したことに反発した山本広(組長代行)らは、山口組を離脱して「一和会」を結成。総勢1万人規模の山口組に対し、一和会も6,000人以上を集めて真っ向から対立しました。
抗争は1985年1月、大阪府吹田市のマンションエレベーター前で、一和会系暗殺部隊が四代目組長・竹中正久、若頭・中山勝正、若頭補佐・南力らを急襲・射殺したことで頂点に達します。最高幹部を白昼に射殺された山口組は、全国規模で一和会に対する報復作戦(返し)を展開しました。
警察庁の記録によると、山一抗争における総事件数は317件、双方の死者は25名、負傷者は一般市民や警察官を含め70名に達しました。自動小銃や手榴弾が住宅街で飛び交い、市民を巻き込む銃撃事件が頻発したことで、世論の批判は沸騰。「任侠」という建前は完全に崩壊し、警察当局による壊滅作戦と、後の1992年暴力団対策法(暴対法)制定への決定打となったのです。