高島城が「諏訪の浮城」と呼ばれる最大の理由は、築城当時は諏訪湖の水位が高く、城の際まで湖水が迫る島のような地形に築かれていたからです。南側には阿部川、西と北には諏訪湖の水が巡り、背後からの攻撃を完全に遮断する天然の水要塞を形成していました。江戸時代に新田開発や河川改修が進んだことで干拓が行われ、現在は内陸の市街地に位置していますが、当時は文字通り「湖に浮かぶ要塞」でした。
この地に城を築いたのは、豊臣秀吉の古参家臣として知られる日根野織部正高吉(ひねのおりべのまさはる)です。天正18年(1590年)の小田原征伐後、諏訪の地に入封した高吉は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて足かけ7年を費やし、近代的な織豊系城郭を完成させました。軟弱な泥湿地に石垣を組むため、大木を筏状に組んだ基礎(筏地形)を沈めるなど、当時の最先端土木技術が注ぎ込まれた経緯があります。
その後、慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いを経て、旧領主であった諏訪頼水が復帰。以来、明治維新まで諏訪藩諏訪氏の居城として約270年間にわたり藩政の中心を担い続けました。島根県の松江城、滋賀県の膳所城と並び「日本三大湖城」の一つに数えられる背景には、水と共生しながら鉄壁の防御を誇った独自の縄張り構造が存在しています。